top of page
  • 執筆者の写真うさぎ観察日誌

2017みやぎ総文 高校演劇全国大会

第41回全国高等学校総合文化祭/

第63回全国高等学校演劇大会

みやぎ総文2017 演劇

8月1日〜3日@仙台銀行ホール イズミティ21

 2005年八戸大会から8月頭は全国大会だから12年目。2007年の島根に伺えなかったのは悔恨。 さて、今年も仙台で12本の高校演劇作品を観劇した。備忘のため感想を記す。昨年の広島大会のときも書いたが、今大会の審査員ではないのでこれらは講評ではない。いわゆる劇評でもない。演劇部のみなさん、顧問の先生、関わった高校演劇関係者に伝えたいメッセージを含んだ感想文である。

 ここで上演した12校は、ここで上演できなかった全国の演劇部の代表である。それぞれがそれぞれの作品を作って観せてくださったことへの感謝、全国大会という場で上演できたことへのお祝い、そして、これからも演劇を好きでいて欲しいという願いを込めて、私もじっくり12本に向き合ったつもりである。おつかれさまでした。それぞれに色も思いも違う、すばらしい作品を観劇できて幸せでした。


●上演1  千葉県立八千代高等学校「煙が目にしみる」作:堤泰之  ほのぼのと暖かい気持ちになる。同年代の、それも10代の俳優しかいない高校演劇の世界で、家族の死をほのぼのと描くというのは、実は難易度の高い作業である。おばあちゃんやお父さんやお母さんを演じるとき、どう老けようかではなく、その人物がどんなキャラクターなのかに重きを置いて演じたのがよかった。中年のおやじらしさは、中年の俳優にはかなわない。年齢のリアリティよりも、その役柄の、キャラクターのらしさが魅力的であった。そして、それは脚本の理解であり、戯曲に書かれている世界を観客にしっかりと提示することでもある。 ●上演2 埼玉県立秩父農工科学高等学校『流星ピリオド』作:コイケユタカ  難しい芝居である。バーチャルで見えているように思えることは、現実世界で見えていることとは違う。だが、芝居としては、見えていることが芝居上のリアルであり、どう見せるかが演出である。SNSのリアルとは何か? 演劇のリアルとは何か? 高校生のリアルとは何か? たくさん投げかけられて、たくさん考え続けていた。が、『流星ピリオド』という美しいタイトルと、衝撃的なラストシーンで、プツっと電源を切られるようにカットアウトされてしまった。ピリオドなのか、そうか、ピリオドなのだ。答えはまだ得ていない。私は見事に術中にはまり、SNSの蜘蛛の巣の中にとらわれている。 追記 ラインをやる、やらないでこの芝居の理解度が変わるのかどうか、とても興味がある。私は、一応、ラインやります。一応、のレベルですね。できないことの方が多いし、メールよりラインが怖いです。でも、メールしない人は電話よりメールが怖かったろうし、電話ができたばかりの時代の人は、手紙より電話は怖かったろうし・・・。 ●上演3 徳島市立高等学校「どうしても縦の蝶々結び」作:林彩音・村端賢志  高校生気分が抜けていないと劇中で怒られる高橋は、この春に卒業した学校事務の臨時職員。現役高校生ではない。舞台として設定されているのは、教室でも部室でも職員室でもなく、事務室。回想シーンをのぞけば、大人ばかりが会話している。敢えて「高校っぽくない」アイテムを並べて、しかし、そこに「高校生活」や「高校時代の夢」や「高校生だったときの感情」を浮かび上がらせるその手腕は恐ろしいほど巧みだ。  自分がなぜ学校事務職員という現在の職業についたのか、事務室にいる三人の先輩が決して語らないこともまたすばらしい。観客は、三人の人生を押し付けられるのではなく、ただ感じる。三人もまた高校生だった時代があったことを想像する。もはや高校生ではない観客の一人である私は、かつて自分が高校生だった頃、どんな夢を抱いていたのか、どんな理由で挫折したのか、そういうことを考えなくなっている自分と対峙する。今、高校生である観客には、高校生という身分が夢見ることを許されている幸福な時代であると、ポンと提示される。その幸福を享受できる時間に限りがあることも、享受できない環境にある人間が存在することも、決して押しつけがましく主張しない。  ある圧倒的な美意識に貫かれた緻密な作品である。そして、私はその美意識に魅了された。たとえば、タイトル。「どうしても縦結び」ではなく、「どうしても縦の蝶々結び」であること。このタイトルに飛んでいる蝶々の存在意義は計り知れない。 追記 私が観劇した下手後方は、ちょうどキッチン隠しの衝立と一直線の位置だった。下手側の扉を開いて引き戸の奥での演技したシーンは、俳優が見えなかった。丹念にリアリティを追求したすばらしいセットだっただけに残念。 ●上演4 宮城県名取北高等学校「ストレンジスノウ」作:安保健  お礼を申し上げなければならないと勝手に感じている。表現の中で最も辛い部分、最もしんどい部分を黙って担ってくださっている。震災を描くときに、作り手の精神的負担がもう少し軽い道もあるだろう。だが、安保先生と名取北演劇部は、常に一番辛い道を、一番大きくて重い荷物を運びながら先頭を切って進んでくださる。仙台大会の開催県代表という立場で、津波で大切な人を亡くし、それでも生きていかなければならない人々とその終わらない悲しみから目をそらすことなく、悲しみに寄り添い、いや、寄り添うどころか、悲しみに取り込まれるほどのめり込んで、直球で表現してくださった。口当たりのいい芝居だけが、演劇ではない。楽しい芝居だけが、高校演劇ではない。時には重い石を持ち上げ、必死に投げる必要だってあるのだ。ありがとうございました。 ●上演5 茨城県立日立第一高等学校『白紙提出』作:磯前千春    実に魅力的な登場人物たち。オープニングのダンスの上手さがまた、観客をがっちり掴む。話が進むにつれてわかる全員のバレエの素養、これは、ナチュラルな会話や笑いをとる動きの間の良さにつながっているのかも。主人公・紘生の男友達・結人を演じていたのが女子部員であることも、あとでパンフレットを確認するまで気づかないほど、素晴らしいナチュラルさ。他の俳優たちのキャラも面白い。いいカードが揃っている。だからこそ、キーワードのように繰り返される「気持ち悪っ!」が気になる。女装が好きというのは気持ち悪いことなのか? 男子は女子を、女子は男子を好きじゃないと普通じゃないのか? 紘生がそれに悩むという設定で始めたとしても、多様な価値感をぶつけていくことでコメディがもっと面白くなり、芝居が深くなるのではないのか?  「女装って「気持ち悪っ!」なの?」という初期段階でつまずいた私は、紘生の悩みが何なのかよくわからなかった。自分のピークが中学校の文化祭で来てしまって、そのあとアイデンティティを見つけられない話なのか? あれだけ踊りがうまくて、踊りで賞賛されたなら、女装云々より、踊りを続けていないということの方が大きな問題なのではないのか? 両親をトランスジェンダーで描く(単に三役を一人で演じるということの結果?)なら、紘生の悩みは芝居の中でそことつながらなくていいのか? ああいうご両親なら悩む必要ないのではないかと思ってしまったり。  劇中、スカートではなく、ジーパン姿で踊る紘生が本当にカッコよかったのである。いきなりニジンスキーかよ! みたいな。別に小難しいジェンダー論を展開して欲しいと思っている訳ではない。もっと自由に考えて欲しかったのである。全員が生き生き踊る姿をもっと観たかったのである。狭い常識にとらわれて「気持ち悪っ!」と思考を停止していしまうことこそ、「気持ち悪っ!」と思う。演劇はとことん自由であって欲しい。 ●上演6 沖縄県立向陽高等学校「HANABI」作:竜史「文化祭大作戦」より潤色:吉澤信吾  『ロミオとジュリエット』の無限の可能性について、強く考えさせられた。そう、問題はロミジュリ。  ここで描かれる高校生の日常生活はキラキラしている。溌剌としている。体制なんかに屈しない、大人のいうことなんか聞かないあの前半のパワーを、劇中劇『ロミジュリ』で倍増させて欲しかった。シェイクスピアをジャンピングボードに、もっともっと爆発して欲しかった。シェイクスピアは江戸時代バージョンごときで動じない。坪内逍遥訳だってあるし、前例のない演出なんかないくらいたくさんの人々が様々な演出を試みている。ラストシーンを悲劇的に描くか喜劇的にするかもたいした問題ではない。「ある程度」でまとめるのではなく、どうしてたら「この程度」を越えていけるか、とことんやって欲しいのだ。失速せずに、どこまでも! ●上演7 明誠学院高等学校(岡山)「警備員 林安男の夏」作:螺子頭斬蔵  世代を越えた二人の男子の友情物語として観ると、すっと入って来る。友情なんて一言もいっていないけれど、孤独な二人のコミュニケーションが成立していく様はうれしくなる。  55歳男性・林安男(妻と娘がいる)の物語として設定どおりに考えるなら、地縛霊を林安男のドッペルゲンガーとして描けないかと、妄想しながら観劇した。もっと他の描き方があるのでは?とか、もっと演出をこうしたいとか、表現欲を刺激する不思議な作品である。 追記 季刊高校演劇に掲載されている舞台写真がとてつもなく魅力的。ブロック大会まで写真のようなシンプルな舞台美術だったのだろうか? 以前の美術で拝見したかった。

●上演8 福島県立相馬農業高等学校飯館校『-サテライト仮想劇-いつか、その日に、』作:矢野青史  東北大会に続いて二度目の観劇。最初に拝見したときよりも腑に落ちた。ズドンと来た。最初に作品の弱さだと感じたことが、こうでなくてはならない無骨な力強さだとわかった。創り手たちは「理不尽な現実」に怒っているのだ。アピールしたいメッセージなどない。だから、声高に叫ぶことなく、静かに怒り続けているのだ。だって、理不尽だから。あまりに理不尽だから。  登場人物であるハルカ、サトル、ユキは、サテライト校が元の村に帰還することにより転校せざるを得ない。でも、彼らは「サテライト校の帰還」に怒っているのではない。そもそも、サテライト校が生まれなければならない状況が理不尽なのだ。中学までの自分をリセットするために頑張ってきた場所が、いきなり奪われるという理不尽は、生まれ育ったふるさとにいきなり住めなくなるという理不尽と同根だ。このまま続くはずだった生活が、自分と関係のない理由で終了してしまう理不尽さの前に、彼らは、いや我々は、あまりに無力なのである。  観客と、この静かな怒りを共有するーその目的を達成するために、『-サテライト仮想劇-いつか、その日に、』はとにかくシンプルに、力強い表現を追求する。「拙い」と誤解されることを恐れずに、まっすぐな表現だけを丹念に選んでいる。だからこそ、ユキが笛で吹くゆがんだ「ふるさと」の音色とともに、セリフのひとつひとつが観客にしっかり届く。  幕が降りるとき、この芝居がドキュメンタリーではなく「仮想劇」であることに一瞬ほっとし、しかし、すぐに、他のサテライト校のことを、飯館校の未来を、この世のすべてのどうすることもできない理不尽を思った。 追記 1、東北大会上演時、四つのライトで区切られたエリアは客席に正対していたと記憶する。全国大会では、少し上手奥に振っていて、その変更によるミザンス、俳優のやりとりの変化が大正解だったと思う。 2、東北大会のときは、他の地域の人たちに、福島の変わらない現実を知って欲しいと思った。知ってもらうために上演を続けて欲しい作品だと考えた。全国大会を拝見して、それはもちろんだが、仮想劇だからこそ、福島以外の学校で上演が可能であり、演出もどんどん変えて全国各地で上演したら良いのにとも思った。 ●上演9 兵庫県立東播磨高等学校『アルプススタンドのはしの方』作:籔博晶    四人芝居である。だが、青春群像劇だ! 舞台上にいる四人以外の、登場しない登場人物の姿形がその表情まで見えてくる!! 熱い青春とかちょっと勘弁な感じの四人が、野球の応援をしながらおしゃべりしているだけなのに、それがしっかり青春ドラマになっている!!! 「青春っぽさ」を揶揄しながら、最終的に青春を肯定する若さが眩しい!!!! 感想を書くときにも、思わず、エクスクラメーションマークなんかつけたくなるような芝居なのである!!!!!!  会話の面白さもさることながら、たった四人で甲子園球場の野球観戦を描いてしまうダイナミックさと、不在の人物を描くための情報をいつどんなふうに出していくかの筆致の緻密さが、実に魅力的に混じり合っている。挫折と友情とチャレンジの話なのに、ちっともクサくない。高校演劇と高校野球のカップリングは、もうやり尽くしてしまったかと思いきや、こんなチャーミングな作品が生まれるとは。うれしい驚きである。  観終わったときに、四人を、登場しない人物も含めて、登場人物全員を好きになっていた。この夏の出会い。作品とも!彼らとも! ●上演10 岐阜県立加納高等学校「彼の子、朝を知る。」作:白梅かのこ  戦争の気配を常に感じさせるイメージ連鎖の不条理劇、だと思った。わかりやすさに逃げず、表現したいイメージにとことんこだわっている姿勢に打たれる、とか、思った。ところが、脚本を読んでだら、わかりにくいところはちっともなくて、逆にびっくりした。イメージがすっきりまっすぐ伝わってくる、魅力的なテキスト。のびのびとしている。実に自由だ。舞台よりテキストの方が自由な印象なのは、なぜだろう? 舞台美術のチョイス、中央にどーんと置かれた櫓の圧迫感のせいだろうか? セリフのスピード? もっと軽やかに演出したら、この戯曲はもっともっと伝わるるのではないだろうか。「#7 私たちは、つながっている、」は、この作品の白眉。  「戦争は遠いのか? 否。」その強いメッセージを直球で投げることなく、イメージの断片を積み重ねて、観客の心の中にひたひたと沈殿させていくような作品。出会うことができてよかった。 ●上演11 北海道北見緑陵高等学校『学校でなにやってんの』作:北見緑陵高校演劇部  最初にごめんなさい。まさかの3分遅刻で、ロビーのモニターで観劇しました。だから、会場でドッカンドッカン受けている様子をモニターで見つつ、その空気に一緒に包まれることができなかったのです。悔しすぎる。まさに「全国大会でなにやってんの」です。本当にごめんなさい。だから、この感想文は、モニター観劇と、あとで戯曲を拝読してものです。  主人公である放送部部長・山田の魅力が圧倒的。ひたむきさと前向きさ、そして、時に明るすぎるテンションに寂しさが見え隠れする。疾風怒濤の転換が楽しみで、どんどんやれやれ、もっとやれと応援したくなる。  さて、山田が最後一人になってもう一度編集に取り組むところ。「みんなでやる」「一緒にやる」ってなんだろうって、私自身もずっと考えていた。インタビュアーであって、本音を語っていない山田の本音はこの芝居でどんな風に語られるのか? そこが見たかった。彼女が一人になってから、どんな声と共演するのか、そして、彼女は兄を語るのか? 後半10分、妄想が膨らんで・・・モニター観劇だからか。ごめんなさい。 ●上演12 埼玉県立新座柳瀬高等学校『Love&Chance!』原作:ピエール・ド・マリヴォー 翻案:稲葉智己  まさか、マリヴォーの『愛と偶然の戯れ』を全国大会で観られるとは。うれしい驚きである。古典に取り組む演劇部は本当に少なく、それが全国大会まで進むというのもすごい確率だろう。演劇の幅広さを享受することができて、観客はラッキーである。  評価すべきは、単に古典に取り組んだということではなく、新座柳瀬高校演劇部流のラブコメとして、他校とは一線を画すひとつのジャンルをしっかり創り上げていることである。宝塚的な背筋の伸びたかわいらしさ、アニメ世界の現代的なわかりやすさはひとつの個性である。もともとマリヴォーの描く女性が現代的である点も寄与しているが、メイン4人の恋人たちが全員女性というキャスティングのせいだろうか? ゆるやかなフェミニズムがベースに感じられて、古典の人物描写でときおり感じる違和感がないのも良い。違う演目を演じたら、その世界もきっちり魅せてくれるのだろうと思わせる演劇的実力を十分に感じさせてくれた。 追記 生徒講評委員会に、衣装を着た部員がやってきて、急遽、写真撮影会となったのを偶然観た。大人気! わかる!

閲覧数:12回

最新記事

すべて表示

ROSE

bottom of page