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執筆者の写真うさぎ観察日誌

2016ひろしま総文 高校演劇全国大会

更新日:2022年10月25日

2016年 08月 10日



第40回全国高等学校総合文化祭 2016ひろしま総文 演劇 8月1日〜3日@JMSアステールプラザ


 全国大会で12本の高校演劇作品を観劇した。備忘のため感想を記す。今大会の審査員ではないのでこれらは講評ではないが、いわゆる劇評でもない。演劇部のみなさん、顧問の先生、関わった高校演劇関係者に伝えたいメッセージを含んだ感想文である

 ここで上演した12校は、ここで上演できなかった全国の演劇部の代表である。それぞれがそれぞれの作品を作って観せてくださったことへの感謝、全国大会という場で上演できたことへのお祝い、そして、これからも演劇を好きでいて欲しいという願いを込めて、私もじっくり12本に向き合ったつもりである。おつかれさまでした。それぞれに色も思いも違う、すばらしい作品を観劇できて幸せでした。


8月1日(月)

●上演1

広島市立沼田高等学校「そらふね」黒瀬貴之/作


 強い「やさしさ」に支えられた、凛とした原爆劇であった。母親も、成長してからの姉妹も、見守ってくれている隣のおばちゃんも、皆、芯の強い女性だ。受容できるはずもない被爆という恐ろしい体験を受け止め、自分よりもお互いを気遣う姿は本当に美しく、生き続けるために必要なのが「憎しみ」ではなく「やさしさ」であるという思いが、まっすぐに伝わってくる。


 名作『父と暮らせば』(井上ひさし)のように少人数のキャストでドラマを掘り下げる手もあったろうが、それを選ばず、おそらく部員のほとんど全部が出演したであろう「そらふね」を物語るミュージカル・シーンは、この作品において最終的に正解なのだと思う。子供、若い娘、おばちゃんというキャラ分けを、類型を恐れず、とことんわかりやすく演じたことも結果として効果的だった。演劇的なたくらみを排除し、作為を感じさせなかったことによって、作品世界のイメージと方法論が一つになった。


 1本目という上演順は偶然だと伺ったが、広島で開催された全国大会の幕開きに、原爆をテーマにした、ナチュラルな広島弁(しかし、今2016年に高校生が普通に話していることばではないだろうが)のこの芝居を拝見できて、身が引き締まる思いだった。まさに、広島大会オープニング作品だ! 静かに、淡々とこの芝居を演じてくれるだけで、平和への思いは強く浸透する。

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●上演2

青森県立青森中央高等学校「アメイジング・グレイス」畑澤聖悟/作


 『アメイジング・グレイス』は、青森中央高校演劇部が青森大空襲の日のイベントで上演をする『7月28日を知っていますか?』という生徒創作の作品がベースになっている。2015年に、青森空襲を記録する会や自分たちの祖父母、その知人に取材して作り上げ、2年目となる今年も要請されて上演したという。


 戦時中には全国各地で空襲があり、それぞれの地で多くの方が亡くなられているのだから、空襲をメジャーとかマイナーとかいう尺度で語るのは馬鹿げている。だが、愚かしいのは承知で書けば、青森空襲はマイナーだ。そして、そのマイナーさが、『アメイジング・グレイス』という新たな芝居を作るときに、青森空襲そのものをダイレクトに伝えるのでなく、戦争を、反戦への思いをどうしたら描けるかを徹底的に考えさせ、普遍性を獲得するに至った。


 侵略、歴史の改ざん、難民問題、ヘイトスピーチ、差別が1時間にぎゅっと凝縮されている。それらの解決の糸口になるのは、鬼と人間という人種(鬼種)の垣根を越えたサチコとトモカの友情である。これは希望だ。安易に手にいれることのできない、だが、確実にあるはずの希望だ。


 希望をもっとわかりやすく提示すれば、『アメイジング・グレイス』はもっと愛される作品になっていただろう。だが、その道を選ばなかった覚悟を、私は評価したい。戦争を描くということは、広島で爆撃のシーンを演じるということは、そういうことだと私は思う。


追記

青森空襲を記録する会


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●上演3

静岡県立伊東高等学校「幕が上がらない」静岡県立伊東高等学校演劇部・加藤剛史/作


 高校演劇への挑戦状のような芝居である。こんな高校演劇は今までなかったでしょ? という、気概に満ちている。その挑戦もまた、高校演劇である。こういう芝居も包括できるからこそ、高校演劇は面白いと私は思っているのだが、とにかく、これだけ議論を呼ぶ、議論したくなる芝居に出会えてよかったという前提で筆を進める。


 観客席を演技スペースとして使用するという選択は、「1,200人の観客のすべてがセリフを聞き取れる、演技の全貌が観て取れるように演じる」ということを端から断念し、むしろ、それに背を向けるアナーキーさにこそ価値があるという企画意図による。意図的にそうしている以上、審査員以外の人間が、聞こえる、聞こえない、見える、見えないということを評価軸として問題にしてもしょうがない。幸運にも小劇場的至近距離で演技に拝することができた観客と、何をやっているのか全く情報を得らえず、1時間集中することができなかった観客の反応に差異が生じることも想定内なのだから。それも含めて、どう評価されても構わないという姿勢が、最も物議を醸すポイントだと思う。


 さて、戯曲について。加藤剛史コーチのナンセンス、リズム重視のセリフの羅列のふりをした戯曲は、とても緻密に書かれている。緩急、硬軟取り混ぜて、チェーホフ、シェイクスピアからクドカンまで演劇的イメージを、ときにはチェルフィッチュのように、ときにはク・ナウカのように提示する。伊東高校の卒業生だというSF作家・鈴木いづみのイメージも、生理、童貞、ファックといったおよそ高校演劇的ではないことばも選び抜かれたもので、高校生が高校生という役柄でそういうことばを発するのが好きか嫌いかはさておき、作品の放つアナーキズムに寄与している。


 「幕が上がらない」というタイトルは、高校演劇関係者なら誰でもわかる、高校演劇礼賛青春映画「幕が上がる」のパロディである。アンチ「幕が上がる」の立場をとることで、高校演劇という既成概念、手垢のついた青春イメージと対決する図式だ。映画のキャッチフレーズ「私たちは、舞台の上でなら、どこまでも行ける!」はこの戯曲にも登場し、そのフレーズを否定することで、舞台上で演じない『幕が上がらない』の根本となる、はずである。ところが、ここが弱い、と、私は感じる。観客席だけで演じるときに、出演者たちの思いのベクトルは、幕に、幕の向こうの舞台に向かっているはずなのに、そのベクトルが見えてこない。それでは、高校演劇史上、観客席のみを使用した芝居はなかったでしょ、というワンアイディアで終わってしまう。「いや、どこまでもは行けないし」というセリフにどう集約していくか、そこが観たかった。


 もうひとつ、「行くぞ!全国!」という映画キャッチフレーズを、女3りこがラストシーンでどう語るのか。(関東大会で観たときには、どう語ったのかキャッチできなかった。)今回、全国大会で観て、メタで伊東高校演劇部が登場する作品で高校演劇を扱うなら、伊東高校演劇部が全国大会の出場権を得てしまった事実をメインに戯曲を書き換えたら、どんなに面白いだろうと思った。そもそも自分たちの高校を卑下する自虐ネタがセリフの大半をしめる訳だが、他の全国大会参加校や観光地・広島に触れるだけでよかったのか? 「行くぞ!全国!」の否定を全国大会で演じるという、それこそ前人未到のアナーキズムは、そこでこそ発揮されるべきではないのか? 


 鴻上尚史氏の名作『朝日のような夕日を連れて』が、再演の度に進化し続けれなければならない宿命を背負っているように、『幕が上がらない』は大会のステップを上がることに、高校演劇を照射する角度が変わっていったら面白い。そして、上演台本が変わり続けるという反事務局的な姿勢をは、まさに、高校演劇による高校演劇への挑戦となる。


 「借景芝居」を提唱し、劇場の舞台以外の場所でときおり上演する私としては、観客席を演技空間とした舞台効果上のデメリットより、観客席で演じることによってどれだけその芝居が成功したかのメリットを本当は語りたい。今回、季刊高校演劇に掲載されている戯曲『幕が上がらない』を拝読して、劇場入り口に関わるラストのト書きに書かれている内容は、全く受け取れていないことがわかった。ほとんど誰にも見えない位置で、観客にそこを観ようと思わせることのができないまま、この芝居は終わっていたのだ。そのト書きは、とことん真剣で、しかも歪に美しい高校演劇愛に満ちている。今更読んでもどうしようもないラブレターを、開けてしまったような気持ちになった。


追記1

私は、この『幕が上がらない』の存在を知ったときどうしても観たいと思い、関東大会に出かけたので2回観劇している。アナーキー、斬新ということで言えば、筑波大学附属駒場高校の『ガンジス川を下る』が断トツであったと思う。


追記2

ジャンル分けされることは心外だろうが、たとえば、2010年宮崎大会の中央大学付属(東京)『(急遽演目を変更いたしました)』(臼井遊/作)や、同大会で口蹄疫問題の影響で映像出演となった鹿追(北海道)『平成21年度北海道然別高等学校演劇部十勝支部演劇発表大会参加作品」(井出英次/作)が、この高校演劇挑戦劇というジャンル(?)の先達であると感じた。用意された舞台でそのまま「いわゆる高校演劇」を上演することに「待った」をかけ、上演すること自体に疑問を呈しつつ、メタ高校演劇作品を作るという点で。

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●上演4

北海道北見北斗高等学校「常呂から(TOKORO curler)』北見北斗高等学校演劇部・新井繁/作


 curlerはカーリングをする人なんだけど、『北の国から』の「から」と、かけ言葉になっている訳で、ケイコちゃん、これはもう、なんというか、北見北斗高等学校演劇部・新井繁版『北の国から』な訳で。♪るーるるるるる


 綿密な取材を元に紡ぎだした良質のフィクションである。夢を追う父、夢を追うことを躊躇する娘。カーリング普及の道の苦難よりも、人の気持ちの機微と暖かさに焦点を当てているのが良い。それを、デリケートな演出で丁寧に作り上げている。

リアルな衣装で、部屋の温度(暖かい部屋も2階の寒さも)、零下の外気のしばれ加減もきちんと伝わってきた。特に、屋外カーリング場の寒さ、そんなはずはないのだが、吐く息の白さもポットのお茶の湯気も見えるようだった。


 とにかく、父と娘・由美子のラストシーンの美しさに尽きる。情景も、登場人物の心も。あの転換後のカーリング場シーンをさらに際立たせるために、他の場面をすべて居間と店だけにできなかったろうか? 先輩との駅のシーンを設定せずに、由美子の恋を描くことはできなかったろうか?


 常呂はシバれるのにあったかい。いや、シバれるからあったかい。いい塩梅の北海道弁のあたたかさ。信念などというかっこよさとは程遠い印象なのに、カーリングの普及に夢中になり続けるお父さんのキャラクターは実に魅力的だった。このお父さんに会えて、良かった。

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●上演5

広島市立舟入高等学校「八月の青い蝶」周防柳/作,須﨑幸彦/脚色


 沼田高校とはまた違ったタイプの原爆劇を広島大会で観せてくださって、ありがとうございます。原作である小説「八月の青い蝶」の美しさが、ヨーロッパ映画の小品ようなテイストで演劇「八月の青い蝶」に結実していたと思う。リアルすぎないトーンがほどよく、少年・亮輔の淡い恋心、少しずつ大人になっていくデリケートな精神状態に、私は感情移入することができた。


 映画ならば、1時間40分くらいの作品として、ゆっくりたっぷり時間が流れるだろうか。1時間の演劇として脚色するときに、原作の過去と現在をいったりきたりする手法をそのまま舞台にのせるのがよいのか、正直なところよくわからない。テキレジがどうあるべきか、小説とじっくり比較しながら考えたいところである。


追記

内木文英賞は、原爆劇への長年の取り組みという受賞理由を鑑みるに、舟入高等学校と沼田高等学校の2高同時受賞とし、舞台美術賞は阿波高等学校にあげたかったと思う。


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8月2日(火)

●上演6

岐阜県立岐阜農林高等学校「Is(あいす)」岐阜農林高等学校演劇部/作


 この作品を観ることができて、高校演劇がますます好きになったし、広島大会を観に来て本当によかったとつくづく思えた。とにかく、観劇している間、ずっと幸せな気持ちだった。楽しい。次のシーン、次のシーンとぐんぐん引っ張られ、そのままラストになだれ込む。


 舞台美術、特に、バスケットのゴールの仕掛けと自動車は秀逸。戯画化されたキャラクターも単純すぎると感じる間もなく、ひたすら愛おしい。少年の存在は不要かも最初思っていたが、ラストへの展開で、これもありと思えた。


 青春はこうでなくっちゃと膝を打つ。同時に、一時間、一瞬たりとも立ち止まらないために、どれだけの技を駆使したのか、その技術と仕掛けについて考えさせられる。これでもか!のジェットコースター・エンターテインメントと、テーマを深く考えさせない流れるような展開は諸刃の刃だ。岐阜農林高等学校演劇部は、いつも、どんな芝居を作りたいのか、その行き先をしっかりと見据え、足取りは確信に満ちている。

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●上演7

北海道清水高等学校「その時を」北海道清水高等学校演劇部/作


 本当に高校演劇ラブな気持ちにさせてくれた作品である。笑いのセンスがことごとくツボ。特に、シーン1からシーン2へのつなぎで、登校時の自転車シーンから教室に変わるところが、最高にツボで、そのポイントで心をわしづかみにされ、そのまま彼らの世界に連れて行かれた。見事な導入である。


 来年で廃校になるという設定が、効いている。どんな高校生も高校生活はもう二度とないのだけれど、その終わってしまう感が半端ない。この学校がもうなくなるから、自分たちが最後の卒業生だから、やり残した青春がないように、前向きに、精一杯高校生活を謳歌しようとしている。だけど、そんな風に見せないで、ぬるーく楽しんでいる風を装うイタさもまた、青春だったりして。


 審査をさせていただくときに、「部員の仲の良さが伝わってくる舞台で、本当に楽しい演劇部なんですね」というのは禁句である。ほめることがないから、そんなことを言っていると思われる。だが、この芝居に関しては、心からそう思う。そして、それが、芝居の切なさ、優しさに直結している。たった7人しか生徒がいない学校という設定の登場人物が、互いを思いやる世界は、清水高校の演劇部員たちが、この芝居をつくるために、互いを思いやり、尊重し合う優しさに強く強く裏付けられている。素舞台の何もない空間。部員たちの演劇の力で、その空間が教室になり、放課後のグラウンドになり、川になる。登場人物たちが愛してやまない、その高校になる。


 一つだけ。タイトルの『その時を』の硬さが気になる。なにかしらもっといいタイトルがあるはず、と、観劇以来ずっと心にひっかかっているのだけれど思い浮かばない。『ニジマス』とか? いやぁ、違うなぁ・・・。

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●上演8

佐賀県立佐賀東高等学校「ボクの宿題」いやどみ⭐︎こ〜せい・佐賀東高校演劇部/作


 戯曲を読み直し、泣いてしまった。上演を観たときもすごいと思ったが、なんだ! この戯曲のすばらしさは! 上演時、私は、息子の物語のふりをした父親の話だと受け取った。しかし、読み返してみると、息子と父親、ふたりの物語にきちんとなっている。そして、ちょっぴりシニカルなユーモアと問題提起が巧みに表裏となっていて、セリフがすこぶるうまい。参りましたっ!


 ボクの宿題は、父さんの宿題で、でも、やっぱりボクの宿題で、ボクも父さんも愛川くんで、父さんの過去はボクの未来で、でも二人はやっぱり別々の人間で、この迷宮がとことん気持ちいいのだ。


 なぜ、私は、息子の物語のふりをした父親の話だと受け取ってしまったのだろう? 観劇時を思い出してみる。息子と父親以外の、誰がどの役を兼ねて演じるかが、わかりづらかった。ウチノクラ先生が、本当に父親の大学時代の友人なのか、そうではないのかの意図を掴み損ねた。もしかすると、この戯曲を何人で演じるか、何人で演じるために書いたのか、という、卵とにわとりのよう問題が生じたのだろうか? 


 12本の中で、今、一番、もう一度観たい芝居である。いろいろ確かめたいのもあるけれど、「未来の話をするよ」というあのセリフを聞いて、また、あの高揚感を味わいたいのである。

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●上演9

埼玉県立芸術総合高等学校「解体されゆくアントニン・レーモンド建築 旧体育館の話」オノマリコ/作


 美しい芝居である。演出も、戯曲も。本当に美しい芝居である。とても残念なことに、私はこの作品世界になかなか入っていけなかった。なぜだろう? 「私たちは美しい世界をつくります。美しく演じています」という意識が、常に頭上に高く掲げられていて、それが、なんだかバリケードのように感じられたのかもしれない。大学、という設定でなければ良かったのか? 抽象名詞で呼び合う世界観と大学生活を描く様子が、私の中では結び合わなかった。そこが戯曲の世界観としてもっともすぐれているところであるはずなのに。


 解体されゆく、滅びゆく、散りゆくもののあわれの美しさより、咲き誇る美しさが勝っているようにも感じられた。いずれ、美しいのだけれど。

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●上演10

徳島県立阿波高等学校「2016」よしだあきひろ/作


 『2016』は、2016年という今、現在を、30年前の1986年から俯瞰して見よう、しかも、それを、2016年の高校生たちが演じようという、大胆不敵な試みである。ゴルジ体という男性教師とサッチャーと呼ばれる白衣の教師(?)が、両方とも本人として登場し、二つの年代をつなぐ役割を果たす。


 なるほど、この方法ならば、チェルノブイリを他人事として何も学ばなかった、さらに、3・11のあとも学ぼうとしていない日本人を、まさか、そんなはずないよねっという立場から淡々と描き出すことができる。実は、かなりメッセージ性の強い作品なのだが、戯画化して演じられる人物たちの造形もあって、メッセージを押し付けることなく、きっちり芝居として観せてくれる。


 戯曲から、私が捉えた構造は以下である。


 2016年で語るゴルジ体の思い出話から、1986年にシフトしていく。ラストは、この同じシフトの時間を経て、2016年に戻る。1986年にいる科学部の連中が、文化祭で「2016の世界・科学部」という展示をやろうとしている。サッチャーは、1986年から、2016年になった今なお、放射能を気にし、雨に注意しろと言い続けている。


 そして、残念ながら、芝居を観ただけではここまでわからなかった。困ったことに、誰が誰なのか、よくわからなかったのである。


 いくつか原因がある。名前がわかりづらいこと。1986年当時のヤンキー・スケバンが記号としてあまりに強く、1986年当時の普通の高校生と2016年の普通の高校生のキャラわけができないこと。ゴルジ体が思い出を語るという設定でするライブのトークと、1986年当時のライブのトークが全く同じということが戯曲上のキーなので、ゴルジ体が30歳年とっているということが表現しづらいこと。


 また、戯曲での表記によって生じた疑問なので、実際の上演時にはどうしていたかわからないのだが、ミーナに暴行を加える子分たちに、ナンノも入っているのか? 上演時にもあれっと思ったのだが、科学部のプレゼンにミーナも入っているのはどういう演出意図か?


 1986年から2016年を俯瞰するという仕掛けが、あまりに強く、面白く、それゆえに、それぞれの人物や人間関係を描くドラマ部分が弱まってしまったのが、とても残念だと感じた。


 本当の未来ではない、こうあって欲しい(しかも、ちょっとカリカチュアしてプレゼンテーションする)すばらしき未来を描くための照明がやたら美しく、足を踏み入れてはいけないという設定の校舎の片隅の狭さもこみいっている感も不思議な強さを放っていて、得体のしれないパワーに満ちていたことは特筆すべき。

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8月3日(水)

●上演11

和歌山県立串本古座高等学校「扉はひらく」出口耕士朗・藤井良平/作


 観終わって、生徒講評委員の話し合いを聞きに行ったら、登場人物のヤマグチくんとムラタくんのどちらが孤独か、それぞれが語っていた。みんな、ぼっち(=孤独)に対して切実な恐れを抱いていた。私は、一見友達がいて、その実、むりやり合わせているだけのムラタくんの方が圧倒的に孤独だと感じていたが、高校生の意見はきれいに二分していて、それがまた、この『扉はひらく』という作品の訴求力と面白さを痛感させてくれた。


 実に見事な二人芝居である。教室、エレベーター、教室の3場仕立て。二人が直接話すエレベーターのシーン以外は、上手と下手にかなり離して置かれた教室の机と椅子があり、同じ教室にいる二人が直接話すことはない。置き道具だけがポツンと置かれ、舞台上のその距離は、二人の心の距離まで表現している。そして、それぞれが一人芝居をしているかのようなこの冒頭の教室シーンは、否応がなしに、このあと、二人がどんな接点を持つに至るのか期待させる。


 そして、メインとなる、エレベーターのシーン。明かりでエリアを区切っただけのエレベーターに、クラスメートとは知らずに乗り込む二人。関係性の変化、ステイタスの変化は、二人芝居の醍醐味をたっぷり味あわせてくれる。


 ムラタくんの韓国語を話すシーンと、ヤマグチくんが映画『ノッキング・オン・ヘブンズ・ドア』の話をするシーンが圧巻だ。不勉強なことに私はこの映画を知らず、あらすじもタイトルもあまりにこの芝居にぴったりだったので、架空の映画をこの芝居のために作り上げたのか、本当にあるのかどっちだろうとさえ思った。そして、どっちでもいいやと思ったのだ。観客が映画について知らないことはなんのデメリットにもならず、ヤマグチくんの語りで、ムラタくん同様にその映画のイメージにも、ヤマグチくんの持つ世界にも引き込まれていったから。


 ラストは観客に委ねられている。登場人物のヤマグチくんとムラタくんが友達を得て、幸福な高校生活を送りましたとさ、めでたしめでたし、という安易なハッピーエンドには収めないという、演じ、脚本を書いた二人の強い意志が伝わってくる。その曖昧さは、とことんリアルなのである。だからこそ、観客は、二人の友情が続いて欲しい、互いを救って欲しいという強い願いを持つのである。


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●上演12

山梨県立白根高等学校「双眼鏡」河野豊仁/作


 双眼鏡で見られているのは、観客自身である。そう思わせる仕掛けの一人芝居だ。

沙織に共感しようと努力すればするほど、どういう芝居を作りたいからなのかわからなくなる。時計の針を自分で動かすこと、一人芝居の仕掛けを明らかにする前の誕生パーティごっこは、すべて虚言ですよという観客へのヒントなのだろうか? 誰も来ない、待っているふりをしながら実は待っていないゴドー。

 「引きこもり」は本当なのだろうか? 「引きこもりごっこはこれでおしまい。」「ありがとう」「本当は誰かに私を見つめて欲しかっただけなの」は、信じていいのだろうか? 最後の父親に呼びかけるセリフは、どういう意図で作家は書いたのか?

 1時間、一人で生き続ける沙織の強さ、1時間、観客を翻弄し続ける芝居の強さ。緞帳がおりるとき、「引きこもり」の少女への共感や同情をあきらめ、観客である私は、沙織に敗北したと感じた。



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