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みなとまち・あおもり誕生 400 年記念事業

世代交流あおもり市民劇プレトーク

知れば知るほど興味深い!

みなとまち・あおもり 400 年の歴史トリビア

2025 年 9 月 27 日、 28 日の両日、青函連絡船メモリアルシップ八甲田丸車両甲板で、世代交流あおもり市民劇 2025『青森みなと 400 年ものがたり~森山弥七郎から八甲田丸、そして未来へ~』が上演されます。

着々と準備が進む中、作・演出を担当する畑澤聖悟(渡辺源四郎商店店主)が、工藤大輔氏(青森市民図書館歴史資料室室長)にみなとまち・あおもり誕生のあれこれを伺いました。

工藤大輔(青森市教育委員会事務局 市民図書館歴史資料室室長)

畑澤聖悟(渡辺源四郎商店店主、劇作家・演出家)

​写真右から工藤大輔室長、畑澤聖悟

そもそも、森山弥七郎ってどんな人?

 

畑澤  森山弥七郎って謎の多い人物ですよね。

工藤  長寿の話だとか、わからないことがいっぱいある。

畑澤  アレですよね。斎藤道三みたいに親子二代を一人の人間として

 扱ったんじゃないかっていう話。

工藤  イメージ先行の人なんじゃないかなっていう風に捉えています。僕ら歴史

 研究者は資料に基づいて歴史像を立ち上げていくので、そういった観点から見た

 時にはまだまだわからないことがいっぱいある。あまり先入観だけで見ない方が

 いいかなんて思っています。そうなると、つまらなくなっちゃうんですけど。

   たとえば、 そもそも 「開港」っていうことばがまず資料の中に出てこな

 い。私は、やっぱりその歴史っていうのは、ことばだと思っているので、国語的

 な意味でちゃんと伝えられないことばの使い方って、良くないと思っているんで

 す。

  「開港」っていうことばを国語辞典で引いてみると、大きく二つ出てきます。  一つは、外国と貿易することを開港と言いましょう。函館や横浜とか、そういう

 意味合いで言っています。もう一つは、港湾設備を整えましょうっていう意味。

 そうすると、400 年前の青森に関して開港っていうことばを使っちゃうと、誤解

 を受けちゃうんじゃないかなと思ってるんです。特に、その港湾設備っていうと

 ころでいいますと、 まず私たちが一般にイメージするのって、防波堤があったり

 とか、船溜まりがあったりってするようなイメージがあると思うんです。しか

 し、そういったものは一切ありません。

  歴史の講座でお話をして、江戸時代の絵図を見せると、港湾施設は描かれてい

 ないんですよ。で、なんでないんだって言われちゃうんですよ。ないものはない

 んだ。認識の違いで怒り出す人もいるんですよ。ないはずはないんだって。だ

 から、そういう誤解を生まないようにするためにも、私は 400 年前の青森の場

 合、「開港」っていう言葉を使うことは避けた方がいいんじゃないかって思うん

 ですね。 むしろ、近代の港湾設備がしっかり整う大正時代あたりから、120 年ぐ

 らい前、そこからを開港と言う。あと、明治 39 年に対外貿易するようになるの

 で、そこから開港っていう言い方をした方が、日本語としての誤解が少ないだろ

 うと私は思っているんです。

畑澤  なるほど。つまり、油川とか他の港の方が普通に稼働していたんですね。

工藤  はい。

畑澤  森山弥七郎は、 基本的には、生没年が不明な人間だっていう解釈であって

  いますか?

工藤  没年は、はっきりしてます。

畑澤  失礼しました。

工藤  人名辞典なんかには、生年が天正元年って書かれてるんですけど、それは、

 お父さんの生年じゃないかって私は見てるんです。だから、生まれた年は分から

 ないけど、亡くなった年ははっきりしてる。

畑澤  「開港奉行・森山弥七郎」って、なんかもう連続した単語で覚えてるですけ

 ども、正確に言うと、「開港奉行」って言葉は特にないし、「惣奉行」って書い

 た資料だけがあるってことですよね?

工藤  はい、「惣奉行」って書いたものはありました。

畑澤  我々がやろうとしているのは演劇なので、虚実折り混ぜたヒーローとしての

 弥七郎と、本物の弥七郎の両方出てくればいいんじゃないかと思ってて。

工藤  あ、なるほど。

 

油川と弥七郎の関係

畑澤  弥七郎が油川の開発にも関わっていたっていう話は、資料がないけどそう言 われているらしい、っていうことですか?

工藤  そうなんです。弥七郎の供養碑が油川にあるものだから、どうしても油川と の関わりを言いたいんでしょうね。

畑澤  うん。うん。うん。うん。

工藤  もともと、森山弥七郎の供養碑は油川中学校の方にあったんですけど、そこ

 には森山家の屋敷があったかのように書いてあるものもあったりなんかして。だ

 から、弥七郎と油川を繋げたいメンタリティがあるのかもしれない。

畑澤  弥七郎は青森港発展のために油川をスポイルしたわけではない、というハナ

 シもありましたよね?

工藤  そう書いてあるものもあるし、ま、逆に、青森の方に持ってこなきゃいけな

 いって書いてるものもある。 青森に決まったときには、 自分の思いが届かな

 かったから切腹して死ぬことになっちゃう。

畑澤  すると、開港の時点で、もう亡くなっているってことですよね?

工藤  そうです、そうです。江戸時代の記録にそう出てくるんですよ!

畑澤  ライトノベルでよくあるマルチバース(多元宇宙) みたいな感じですね。

 開港前に弥七郎が切腹して死んじゃった世界線。

工藤  そうか。いろんなん弥七郎がいたりするわけですね。

畑澤  工藤さんが書かれてらっしゃる「学習素材としての森山弥七郎は見直される

 ことにならざるを得ない」というのは、 必ずしも恩人として主張するべきではな

 いということですよね?

工藤  現存はしてないんですけれど、森山家に伝わる資料を見て自分は書いたって

 いう江戸時代の人の資料があって、それによると、どうも最初の 2、 3 年ぐらい

 までは関わってそうなんですよ。でも、そっから先が分からない。

畑澤 ということは、その 2 年っていうのは、つまり、まだみなとまち・あおもり

 が機能する前ですよね?

工藤  45 年かかるので、青森の町が十分に機能するまでは。だから、その本当に

 出足の部分では関わっていることは間違いないんだと思います。

畑澤  まだ、油川とかの方が優勢な時だったのかも。

津軽信枚の思惑

畑澤  森山弥七郎が港町靑森の礎を作ったという理解は、間違いないでしょうか?

工藤  森山弥七郎と言うべきなのか、信枚と言うべきなのか?

畑澤  なるほど。基本的には、藩庁主導だったはずだっていうことが書かれてます

 よね?

工藤  はい。藩主の命令がないと家臣は動かないわけですから。何て言うんだろ

 う?  社長と課長みたいな関係。実務的なところを担うトップが課長だと思うの

 で、弥七郎的な人物。デザインするのは、首脳部って言いんでしょうかね。藩主

 を中心といった中枢部が考える。

畑澤  家老の服部長門守や乾四郎兵衛も一緒に来てた。

工藤  だから、弥七郎がどれだけこの街づりのプランニングをしてるのかっていう

 のは、 全くわからない感じはしています。でも、弥七郎は、 おそらく江戸時代の

 うちに英雄になっていく人なんですよ。とにかく、弥七郎と信枚とが二人三脚で

 青森のまちづくりを行ったっていう記録ばっかりが残るようになっていくの

 で、 割と早い時点からスターになった。 現代人が作り上げたスターじゃなく

 て、江戸時代の、青森の人が作り上げていったスターです。

畑澤  これシティ・プライドに関わってる感じはして、つまり、 弘前築城と青森

 開港っていう二本柱にするためにっていうことですよね。

工藤  そういうとこありますね。対抗意識っていうか。

畑澤  最盛期にはもう弘前の次くらいの街になっちゃいますよね?

工藤  そうですね。人口規模としても、 飛び抜けて弘前の次に多いので。基本的

 に、青森は米の積み出し港なんですよ。もう一つは鯵ヶ沢。

畑澤  出しの方ですよね? 青森から津軽の米を運ぶ。

工藤  そうです。青森から太平洋側を回って江戸に送るんです。 鯵ヶ沢は日本海側

 を回って大阪に送るんですよ。その量自体は鯵ヶ沢の方が断然に何倍も多いんで

 すよ。でも、 街の規模とかは、断然多分青森の方が大きいんですよね。

畑澤  北前船のことも描きたいなって思っていまして。弥七郎から北前船の話に

 なって、青函連絡船航路につなげたい。

工藤  弘前藩は太平洋に出ていく拠点が欲しかったんですよ。それで選ばれたのが

 青森だったんでしょうね。

畑澤  いわゆる北前船っていうのは、最終的に蝦夷地に行きますよね?

工藤  はい。行きますね。

畑澤  そこの寄港地っていうのは?

工藤  青森も寄港地にはなっています。ただ、青森は日本遺産に今なってないんで

 すよ。鯵ヶ沢と野辺地と深浦は日本遺産なんですけど。 最近、三町と仲良く色々

 イベントやったりとかはしてますけど。

青森がみなとに選ばれた本当の理由

工藤  もし、青森の港作りに恩人っていう人が誰か必要だとなれば、私は、 初代

 青森市長の工藤卓爾(くどう たくじ、万延元年 3 月 25 日(1860 年 4 月 15 

 日)〜大正 14 年(1925年)7 月 19 日だと思ってるんです。

  さっき、開港っていうことばには二つの意味があるって言いましたけど、この

 二つをどっちともやり遂げようとしたのが工藤卓爾なんですよ。明治 20 年代か

 らそれを一貫して主張してくる人なんです。しかも リアルにちゃんと存在したこ

 とがイメージできる人なので、この人を開港の恩人と言ってもいいかなって、最

 近、私は個人的に思うようになりました。

畑澤  なるほどなるほど。この方の子孫の方はもちろんご存命ですね?

工藤  工藤正市長のおじいちゃんです。

畑澤  つまり、近代的概念における開港っていうことですね?

工藤  はい。

畑澤  それまで船っていうのは港湾設備がなかったっておっしゃいましたけど、ど

 の辺につけてたんですか?

工藤  沖合です。

畑澤  艀(はしけ)で。

工藤  そうです。最初の港湾施設が青森にできるのが明治 9 年。明治天皇が来た時

 に桟橋を作るんですよ。 桟橋を作って、その先に船がいるので、そこからまた

 ちっちゃい船に乗ってどどどどっと行く。

畑澤  なるほど。桟橋すらなかった。蔵が並んだりもしてない。

工藤  うーん。かもしれない。 海沿いのところに建物建てようとすると。船問屋

 たちが怒りり出すっていうのがある。 沖に来る船が見えなくなっちゃうから、

 海沿いに家建てるなって。建てようとして杭打ちなんかすると、青森の船問屋た

 ちがそれ抜いちゃったりとかするんですよ。だから、そんなに蔵があったとかっ

 ていう絵は見たことないです。あ、でも、 藩の蔵はありましたけど。

畑澤  だいぶイメージ変わりますね。青森が選ばれたのは、大型船が入れるってい

 うのが決め手だったってどっかの資料で読んだことがあるんですけど?

工藤  油川か、青森かっていう選択をするときに、油川は浅くって青森は深いって

 いう話がよくあるんだけど、実はどっちもそんなに変わらない。江戸時代の記録

 なんかを見ても、青森は港としての条件はあんまり良くないんですよ。

畑澤  あらら。

工藤 風向き風の問題とか深さの問題とか良くないんです。だから、 最近の考え方としては、青森が選ばれたのは政治的な問題じゃないかっていう。

畑澤  南部藩との国境があるから?

工藤  いえ。そうじゃなくて。油川を使うと、 油川の連中が独立心が強くって言

 うこと聞かないから、油川じゃなくて新しい所、 自分たちの言うこと聞く所に港

 を作った方が良かろうっていう、そういう考えが今主流になってますね。特にあ

 の浄土真宗、いわゆる一向宗を避ける考え方もあります。

畑澤  なるほど。比羅夫丸が青函航路に来たときには、もう青森に決まってました

 ね?

工藤  そうですね。はい。

畑澤  比羅夫丸も着岸じゃなく艀で乗り降りしてましたよね。

工藤  港湾整備されるのって大正 4 年からなんで それまでは桟橋の時代だったん

 です。浜町に最初できて、その後は安方にできて。

 

青森という地名が生まれた話

畑澤  以前、 ラジオで連続ラジオドラマ 「卍の城物語」を書いているとき、開港

 の話もやりました。どこから資料を引いたのか忘れましたけど、森山弥七郎が海

 に馬を乗り入れて、 海岸線の調査をした話。

工藤  元和年間ぐらいにそんなような可能性があるんですね。港湾調査やって。寛

 永 2 年のちょっと前ぐらいなんですよ。元和っていう元号が寛永の前にあるんで

 すけど。 公式な記録には残ってないので、 筋はあんまりいい資料じゃありませ

 ん。 沿岸調査みたいなことをやって、そこで森山弥七郎が出てきたり、ものに

 よっては信枚が出てきたりするような話も残ってます。

畑澤  信枚も青森の港に来て、弥七郎と二人で調査の様子を眺めるシーンを書い

 たような記憶があります。

 「沖合から見ると青く茂った森があるそうじゃな」

 「はっ、 土地の漁師はそれを目印にしているそうでございます」

 「よし、今日からここを靑森と名付けよう」

 「殿、良きお考えにございます!」

 みたいな。

工藤  青森という地名の由来は、その調査とは多分関係ないと思います。

畑澤  あら、そうなんですか。

工藤  ちゃんと江戸時代の記録が残ってるんですよ。でも、それには年代も場所も

 書いていないので。ただ弥七郎と信枚とのやり取りの中で名前が決まっていくっ

 て、それはよくある話としてはあります。

畑澤  はい。はい。はい。はい。はい。 あ、年代がわかんないんだ。

工藤  書いてないです。

畑澤  でも、 曖昧だけど、なんとなく青森港がスタートしたあたりに付随する名前ですよね。青森。

工藤  もちろんそうです。 だから、その時には新しい派立(はだち)になんてつけ

 るかっていう言い方するんですよ。 派立っていうのは街づくりのことを意味する

 ので、だから、それが街づくりが始まる時にやってるのか、 途中で言ってるの

 か、出来上がってから言ってるのかがわからないですけれども、やっぱりその街

 づくりとの絡みの中で出てくるのは間違いないです。

平和の象徴として生まれた街

工藤  さっき、畑澤さんが、 南部氏との関わりっていう話をされましたけど、よ

 く、 津軽と南部を対立させて歴史を描くっていうのは、こっちの地域の人たちは

 わりと好きみたいなんですよね。だから、青森も南部氏との関わりの中ででき

 た、 作られたっていう見方がすごく多いんですけど、私はそれは違うという風に

 考えているんです。 津軽と南部っていう対立項の中で青森が出てきてくるんじゃ

 なくて、むしろ、日本列島が平和になったから、青森の街を作るっていう考え

 方。 戦がなくなったことによって、 街づくりをするっていう考え方をしているん

 ですよ。 だから、私は、青森の街作りは、ある種の津軽の平和の象徴だと思って

 るんですよね。

畑澤  それは、つまり、国境に近いところに拠点があっても大丈夫だという判断を

 するっていうことですよね。

工藤  もし、 津軽と南部との争いの中でこの町ができたって言ったすると、 軍事

 力が必要なんですよ。 攻めてきた時にはね、 戦わなきゃいけない。だけど、青森

 には基本的に軍事力がないんです。それが弘前との決定的な違いなんですよ。 弘

 前は武屋敷があって、お侍さんが住んでるけど、青森は役所の役人は多少はいま

 すけど、基本的に軍事力がないので攻められたら、おそらくすぐ負けちゃう。だ

 から、そんなところが防衛線になるはずがないんです。

畑澤  防衛拠点にするつもりはなかったっていうことですね?

工藤  はい。そもそも、 南部氏が攻めてくる可能性がないと思います。だって、

 やっちゃったら幕府に対する反逆なので。 戦国時代だと、 隣の、 接するもの同

 士で戦いますけど、もう戦はやっちゃいけない時代になってるので。 仮に、 南部

 家が青森とか津軽に攻め入ってくれば、それは徳川将軍に反旗を翻すことになる

 わけだから。 国家反逆罪です。

畑澤  今おっしゃった、 戦がなくなったからできたっていうのは、すごいパワー

 ワードだと思うんです。これはつまり、 藩境に近いところに、 兵軍事拠点ではな

 い港が作れる、そういう意味ですよね?

工藤  はい。

畑澤  たとえば、鯵ヶ沢とかだと攻められないじゃないですか。地理的に。

工藤  はい。絶対にね。

畑澤  なるほどなるほど。

工藤  これ日本列島全体がそうなんですよ。 戦争がなくなって、 徳川の平和って

 いうのが訪れたとき、お城と城下町を日本列島で一斉に作り出すんですよ。で、

 青森はお城でもないし、城下町でもないんですけど、時期がピタッと重なるんで

 すよ。そういう時期に。だから、あの、その平和の時代に青森は作られた街なん

 です。

畑澤  平和の象徴みたいな。

工藤  私はそんな風に見てます。

畑澤  その「平和の街」が昭和 20 年には空襲されちゃうんですね。

工藤  私は、 7 月 27 日、 28 日あたりに、いつも中学生とあの戦災遺構を見て歩

 くんですけれど、そのときに必ず「ここはもともと平和の町なんだよ」っていう

 ところから始めるようにしてます。

畑澤  毎年、『7月 28 日を知っていますか』っていう演劇を、 高校生と作ってま

 して。 今年が 11年目なんですよ。 今年は全国大会と丸かぶってしまって、現役

 の演劇部員たちは香川県に行かなきゃいけないので、一番最初に作った時のメ

 バー、 11 年前に卒業したメンバーが全国各地から集まってきてアウガで上演する

 んです。台本を書いた子は当時高校 2 年生だったんですけども 、青森空襲を記録

 する会の今村さんのとこに行ったりとか、柳町の平和観音像に行ったりとか、自

 分たちで調べて。あのときはちょうど戦後 70 年で、おじいさんかおばあさんが空

 襲にあったって言ってる人? って聞いたら二人くらいいて。じゃあ、話聞い

 てって、そこから始まったんですよ。 8 月 6 日何の日か知らないとちょっと恥ず

 かしいじゃないですか。7 月 28 日は何の日か知らないのも同じじゃないか、みた

 いな感じです。

  もともと、大きな軍の拠点は靑森じゃなく弘前だったわけですからね。 戊辰戦

 争に関わる一連の地方の戦争でも、青森って戦場になってないですよね?

工藤  函館戦争のとき、兵站基地にはなっていますね。新政府軍の兵士が 1 万人と

 か来ちゃう。ただ、戦場にはなってないので。

畑澤  ありがとうございます。 『青森みなと 400 年ものがたり~森山弥七郎から八甲田丸、そして未来へ~』イメージが膨らみました。

2025 年 6 月 27 日 青森市民図書館歴史資料室にて

文責 工藤千夏

無料観劇予約は2025年8月30日11時、開始。

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